ARTMIUM

・アートとデザインはなにが違うか?


 アートとデザインを対峙させることは、不可能です。デザインは、制作する際の構築的な手法で、印刷、建築、プロダクト、ウェブ、はたまた、髪型や、いってしまえば企画の設計、アートにおける制作プロセスなどもデザインといえます。浮世絵なんかの絵作り、木版作り、擦る、というプロセスは極めてデザイン的でした。デザインはアートの中に内包される場合もありますし、デザインという視点でアートも可能です。



・アートが個人的な表現である必要性?


 シュルレアリスム作品では「精神の検閲機関」/理性 を排除した「内面を自動的に表現した」作品がほとんどです。ようは、ものすごく個人的で自由な感じの作品です。だから「アート」はとても内面的な表現であって、それを全うすることが全て。「アート」はとても詩的なことで、計算ずくな表現ではない。自分自身をどれだけ解放できるか、というふうに思っていましたし、アーティストにそういった期待を持つ人も、驚くほど多いのです。そう考えると確かにデザインに対峙しているのかもしれませんね。「アート」が内面的な表現に特化する存在という考えを否定はしませんが、それは表現のほんの一部のことなのです。そういった考えが抜け始めたのは数年前に「東京アートフェア」にいったことがきっかけでした。


・マーケット化するアート?


 「東京アートフェア」はアートの見本市といわれるように、沢山のギャラリーがすし詰めのように集まり、ギャラリスト達は目を光らせ、まさに活気のある市場のような光景でした。これまで僕がみてきたアートは美術館やギャラリーのように、整然としたところでゆったりと見て楽しんで、帰る。ある意味、公の公共財産のような存在でした。しかし、「東京アートフェア」では売る気まんまんのムードが充満していて、絵のキャプションには赤いマークが沢山あるのです。「アート」はどん欲でエキサイティングなものだったのです。たいしたことのなさそうなくだらない絵でもけっこう売れていたのです。
 それから村上隆の芸術企業論や小山登美男の現代アートビジネス、辛美沙のアートインダストリーなど、新しく出版される本をいろいろと読みました。「東京アートフェア」以降結構こういう本が日本で出始めたと思います。それまでの現代美術の本はほぼ、概念的、哲学的な内容がほとんどで、気難しく、難解さを楽しむようなものばかりだった気がします。特に辛美沙のアートインダストリーは「現代アート」を理解するのに最もわかりやすい本だったと思います。もちろん一概に「アートフェア」的な「アート」が全てだとは思いません。シュルレアリスムのような手のつけようのないほど超内的な表現も当然「アート」なのです。


・アートの必然性?


 「アート」の概念は時代の変化にあわせてとても流動的に変化しています。流動性があるということからアートにはある種の必然性があるとも考察できます。最近はマーケットに依存する、のが「アート」の傾向です。異論はあるかもしれませんが。シュルレアリスムのような表現がものすごく芸術的だったのは、「フランス革命」をきっかけに、個人という、主義がうまれ、世界は民主主義の戦いへと移り変わっていたという背景があります。ですから、今先進国でいきる私たちが、そういった難解で、超内的な表現に傾倒しても、一人よがりな印象にしかならなくなってしまうことが多いのです。最近では、表現の内容から、媒体。アナログ、デジタルなど。あらゆる表現が許されています。小規模ながらもそれらを評価するコミュニティも細かく細分化され存在しています。アナーキーなことをしても反骨する対象があまりないのでいまいいち格好がつきません。
 アーティストとコレクター、それらを取り巻く仕組みが最も適切なのが「マーケット」なのです。アートの文脈は数十年前に比べ細分化され、コンパクトなコミュニティの形成が可能になりました、が大きな役割になっていると考えます。そこには両者の欲を実直に表現しあう器があります。ですから最近のアートワールドは「マーケット」的なものになり、「アート」の概念は「コモディティ(商品)」的なものになるのだと思います(ほぼアートインダストリーのパクりですw)。数年後の「アート」はもっと社会的だったり公共的な、超非営利なものが主流になるかもしれません。アートには必然性がある、というところが持論です。



・アートは消費されない?


 アートは消費されてはいけません。「コモディティ(商品)」化したアートが、「アート」たる地位を保てる理由を、消費されない「コモディティ(商品) = アート」と考えます。アートが誰からも忘れられてしまって、作品が倉庫の奥に眠っていてはそれは「アート」ではありません。しかしアーティストがまた復権をして活躍をすれば作品は倉庫から飛び出し「アート」化します。ゴッホは死によってアーティストとなった、という方が自然です。アートとはそういった長期的な流動性のある価値を持つ「コモディティ」なのです。作品リリース後、ゆるやかに価値を失ってゆくものは「アート」ではありません。逆にアートのつもりがなくても、何十年か経った時に作家がアーティストとしての価値を極端に高めた時、過去の作品は突如アート化します。


・消費される「コモディティ(商品) = エンタテイメント」


 エンタテイメントとは消費される概念的コモディティです。エンタテイメントは「アート」同様概念的な商材ですが、長期的な価値設定を目指しません。「時間」を視点とした場合、エンタテイメントはアートと対極にある存在、というのが僕の考え方です。しかし、たけしの風雲たけし城は当時、至高のエンタテイメント作品でした。しかし、たけしが世界的な映画監督となることで、風雲たけし城はエンタテイメント作品からアート化をし始めました。アートとエンタテイメントには双方向性があると考えられます。


・アートミアム(ARTMIUM)ー アーティストはアートだけやるべきか?


 アーティストはアートだけではなく、エンタテイメント商品もうまく扱うべきです。自分の作品を一過性でみせるところと、長期的な価値作りを狙うところを予め設定して、作品制作に取り組むべきだと考えます。映像作品を作るならば、映像のコンセプトとなる絵画を一枚描いておき、映像は著作権の設定を緩和しターゲットを広くし、そのシンボルとなる絵画をアート作品にする。消費されることを恐れるよりかは消費される楽しさを最大限に活用し、核となるコンセプトを絶対的なシンボルとして用意をしておく。アートにするか、エンタテイメントにするかは、使用する媒体やちょっとした見せ方で選択可能です。
 長期的に価値を変化させる必要のあるアートのためには、映像などの完全デジタルメディアは、複製コストが格段に安い分、作品自体に変化がないため流動性を演出するために非常に不利です。時間の経過とともに価値を失う可能性が高く、逆に瞬発力の必要とされるエンタテイメントのためには非常に有利です。絵画などのアナログメディアは、複製不可能性が高く、「不安定かつ予想できない複合的な要素(湿度、気温、日光とか)」による影響を受けやすいので流動的な価値を演出しやすい媒体と言えます。


・アートミアム(ARTMIUM)とは?


 アートミアムとは、一つのコンセプトを媒体、演出によって各々アート、エンタテイメントに切り分け、両者の相乗効果で価値の創造を狙う手法です。



※覚え書きとしてかいてます。