MetaDrawing <展示用>

 90年代、技術や表現はどんどん多岐に渡って分散していった。デジタル技術が発達したことによって、一つの表現を実行するまでのコストが格段に安くなったし、インターネットの普及によってそれらのノウハウや、背景を短時間で獲得できるようになった。新しい表現を生むスピードが加速すると共にそれらの表現の細分化は激化していった。
 表現が多様に拡散していき、収拾がつかなくなるのかと思いをよそに、意外にも、それらの特異な分野で創り手と評論家同士が繋がっていき、細やかな論評がされていった。それらを統合するような王道を作るよりかは、個々がニッチなところで繋がってゆくほうが自然だったといえば自然だったからだろうか。
 音楽の場合、ノイズミュージックという中にもいろいろなジャンルがあり、例えばマゾンナという暴力的なノイズミュージックから、大友良英のようなナマモノ(ヤカン、レコードプレーヤーのマイク、おもちゃなど)を用いた繊細な表現、竹村ノブカズのノイズは、デジタル機器を用いて、とても有機的でアニミズム的なパワーを表現するものまで、多種多様だ。それらのとても細やかな分野において、数は少ないもののそれぞれに対する評論がある。
 美術史における、印象派キュビズム未来派、とか、20世紀から表現の分散は徐々に加速されてはいたが、この十数年でそれが一気に爆発した。過去、様式的なものは王道の中に存在していたが、いまとなっては、それらが拡散に拡散を続け、それぞれが自立している。また小規模な分野が様式化されるまでの時間は驚異的に短い。本来、様式化する作業は、学校や、批評家達など、アカデミックな場面を通ずる必要があったが、最近では、非常に身近な関係性においてアカデミックな作業が随時おこなわれている。
 激化する様式化の拡大によって、新しい表現も、すぐにいろいろなところで流用され、さらに模倣した場合のほうがかっこよかったりする場合も少なくない。オリジナルとはなんだろう、という懐疑心を、もう疑う事自体面倒臭い気持ちにさせてしまう程の威力がある。
 情報化によって、個々の様式に対する論評は、blogや掲示板において、迅速に行われる。作者が作品のプロセスや主題、手法をオープンにすれば、すぐに論評が集まり、超小規模なアカデミックな作業が颯爽と行われてゆく。