メモ2ーポップアート(執筆中)

 高校一年生の時に同じ部活の友達の提案で東京現代美術館にアンディウォーホルの展覧会を見に行った。それまでせいぜい美術の教科書ぐらいの知識しかなかった自分にとって、その展示はとてつもなく衝撃的だった。ピカソやミロやダリぐらいしかしらなかった人間に、毛沢東の壁紙や牛の壁紙とか、アルミの風船が浮かされた作品とか。。もちろんコカコーラやマリリンモンローなんかも。そういったものがキチンと美術館で盛大に展示されている様は強烈な風景だった。

 アート、むしろ消費社会、にとってアンディウォーホルはいまだに恐ろしく強い影響力をもった人物だと思う。当然自分にとっての影響も、いまだにすごいある。大衆(が潜在的に抱える)意識に存在するイメージを平面作品で表現する、という手法は、まさに概念そのものを作品にしたいい成功例だ。さらに概念という手に取れなくよくわからないモチーフと、テーマ(ポピュラリティ)、手法(量産)が最高にマッチしている。そういった見事な融合が、結果的に、「概念をモチーフに平面作品を作ってみる」、という行為を大成功させたと思う。僕にとってポップアートとはそういうことだ。キャッチーなものを描いたり、量産することではなく、消費や量産、大衆(ポピュラリティ)の中に概念を創造する(もしくは見いだす)、という点をポップアートだと思っている。


uniqlo.jpg
 アンディウォーホルが構築した、概念・ポピュラリティ・量産という図式が、以後広告の手法へも吸収、発展していったことはゆうまでもなく、概念を、ブランドコンセプトと置き換え、消費者へ潜在意識を抱えさせ、消費へ繋げるというのが常套句となった。概念・ポピュラリティ・量産さえ成立すればいいのだから、概念→ポピュラリティ→量産でも、量産→ポピュラリティ→概念のように、「概念」を後付けでも順序はなんだっていい。大衆心理を具現化することができればいいのだ。もちろんそれ以前も、冷戦時のプロパガンダポスターや、古くは、日本における仏教の伝達時の仏像なんかもその三点図式がある分、今となっては、ポップアートといえばポップアートだと思う。
 ポップアート以降、広告とアートの違いとはなんだろうか?アンディウォーホルの絵はまだ価値があって売れているのでアートの価値があるが、ユニクロの広告は一連のキャンペーンが終わればほぼ価値のないものとなる。ある日佐藤可士和[外部]棋士にでもなって死んで、実はキャンバスに刷られた広告のカンプ[外部]が、大量にでてきたりしたら、突如アートとなって値段も跳ね上がるかもしれない。例えば、何か作品を発表する一発目のお披露目の時に大きな感動を与える展覧会をやったとしても、それ以降「その時の展覧会」に対してより一層強い価値を生み出す、しかけなり・プレゼンなり・作家の振る舞いがあるかどうかでそれが、アートになるかどうかが決まると思う。いくら自主制作で派手でインパクトがある展覧会をやっても、それが一過性では、アートというより広告的な作品になってしまう。なぜならその本質的な価値とはまわりを取り巻く要素(しかけなり・プレゼンなり・作家の振る舞い+時代や人)を組み合わせることでようやくみえてくるからだ。逆にいえば、仏像やプロパガンダポスターなど、アートのつもりが全然なくても気がつけば勝手にアート扱いされてしまうものも多い。物質的な作品以上に、強い共通概念の集大成である仏像は大衆のシンボルと化し、大いなる芸術作品となる。作品の消費されるまでの時間の長さによってアート・広告の差異が生まれている、というのが自分の解釈だ。期間が結構ながければアートだと思う。
 それでもってポップアートの場合、大衆の中に概念を創造するところに作品の大義があって、一見モチーフにみえる商品やモデルは一つの素材にすぎない。たとえモデルがいくらかわいかろうが、それが大衆からみたとき、何かしらのシンボルにならないといけない。アイドルはかわいいだけではだめで、本人の振る舞いや行動で、特定の社会におけるシンボルになることによって価値が生まれる。そうして生まれた概念や、これから創る概念なりを一応物質的にした媒体が、キャンバスやポスターやオブジェであり、概念のような触れようのないものは買いようがないので、そういうものに値段をつけたくなるんだなあと思う。

 佐藤可士和は不思議にも、僕にとってポップアート職人みたいな存在だ。職人芸のように概念・ポピュラリティ・量産という図式を最大限に活用して作品を作りあげる。美意識が圧倒的に高い分、個性的だ。雑誌でみる度に頬がこけていくので、いつもいよいよ、大丈夫かこの人?と思う。どうかお体はお大事に。

。。。かきかけ 未校正